行政書士として入管業務に携わっていると、時折、何とも言えない無力感に襲われる。どれほど丹念に資料を作成しても、どれほど事情を詳しく説明しても、下りないビザは下りない。
膨大な証拠資料を収集する。何度も依頼人と打ち合わせを重ね、何十ページにも及ぶ理由書や事業計画書を作成する。審査官には、こちらの説明が十分に伝わっていたのかもしれない。
申請人の事情も、日本に来たいという切実な思いも、理解してもらえたのかもしれない。
しかし、理解と許可は別の話である。そこには、法的要件という壁があり、行政裁量という壁がある。行政書士がどれほど努力しても、越えられない壁は確かに存在する。
不許可になれば、依頼人には何も残らない
行政書士の側からすれば、一件の申請に相当な時間と労力を費やしたことになる。
しかし、依頼人の側からすれば、話はまったく違う。
ビザが下りなければ、日本に入国できない。
日本で仕事を始めることも、会社を経営することも、家族と生活することもできない。
申請前と申請後で、依頼人の現実は何も変わっていない。
いや、正確には一つだけ変わったことがある。
不許可歴が、一つ増えた。
時間を費やし、費用を支払い、数多くの資料を準備した結果、手元に残ったのは不許可通知だけ。
行政書士にとっては、全力を尽くした一件かもしれない。
しかし、依頼人にとっては、目的を達成できなかった一件でしかない。
どれほど立派な理由書を作成しても、それ自体が依頼人の人生を前に進めるわけではない。この現実は、実務家として重く受け止めなければならない。
努力は、必ずしも感謝されない
不許可になったとき、それまでの努力を理解してくださる依頼人もいる。
「ここまでやっていただいて、ありがとうございました」
そう言われることも、確かにある。
しかし、実際には、そのようなケースは決して多くない。
依頼人が求めていたのは、行政書士の努力ではなく、ビザの許可だからである。
何十時間をかけたか、何度入管に問い合わせたか、どれほど法律を調べたか。
そのようなことは、依頼人にとって本質的な問題ではない。許可されなければ、結局、何も実現しなかった。
むしろ、不許可という結果について、行政書士の能力不足を疑われることもある。
「別の行政書士に依頼していれば、許可されたのではないか」
そう思われても、不思議ではない。
もちろん、行政書士の準備不足や判断ミスによって不許可になる案件もある。そこは厳しく反省すべきである。
しかし、適切な申請を行ったからといって、必ず許可されるわけではない。
その違いを説明すること自体が、時には非常に難しい。
本人申請した友人は許可されたのに
不許可の知らせを伝えた後、依頼人からよく聞かされる言葉がある。「私の友達は、自分で申請して許可されました」「友達はそんなに資料を出していません」「なぜ私だけ不許可なのでしょうか」。
日本の在留資格申請は、本人による申請はもちろん認められている。専門家に依頼せず、無事に許可を得る人も少なくない。当然、それは制度として何らおかしいことではない。
ただ、依頼人にとって、友人の許可は何より分かりやすい比較材料である。こちらが法的要件や個別事情の違いを説明しても、「それでも友達は許可された」という一言には、なかなか対抗できない。
申請人ごとに、経歴、在留資格、事業の実態、提出証拠、申請時期などは異なる。似ているように見える二つの申請でも、同じ結論になるとは限らない。だが、依頼人が見ているのは、そうした違いよりも、友人には許可が下り、自分には下りなかったという現実である。
入管実務の世界には、こんな噂もある。本人申請の場合には、多少の説明不足や不備を柔軟に見てもらえる一方、行政書士が取り次いだ申請は、専門家が関与している以上、より厳しく審査されるのではないか、というものである。
もちろん、これを裏付ける公的な比較データや公式方針を確認したわけではない。本人申請と取次申請で許可基準が異なると断定することはできない。実際には、申請内容や案件の難しさの違いが、そうした印象を生んでいる可能性もある。
それでも、仮に専門家が関与したことによって資料の精度や説明の整合性を一層厳しく期待されるのだとすれば、皮肉な話である。依頼人は安心を買うつもりで行政書士に依頼し、行政書士は慎重に論点を整理する。その慎重さが、結果として追加の説明や新たな疑問を招くこともある。
だからといって、本人申請の方が有利だとも、詳しい資料を出さない方がよいとも思わない。余計な説明を増やさず、必要な事実と証拠を過不足なく示すことこそ、専門家の仕事だろう。
しかし、不許可になった依頼人からすれば、専門家に費用を支払ったのに、本人申請した友人より悪い結果になったという事実しか残らない。
専門家の価値を言葉で説明することはできる。だが、その価値を不許可になった依頼人に実感してもらうことは、もっと難しい。
成功したときには当たり前、失敗したときには責任を問われる
許可されたとき、依頼人は喜ぶ。
しかし、それは行政書士の努力に対する評価とは限らない。
そもそも法的要件を満たしていたから許可された、と考えることもできる。
一方、不許可になれば、行政書士の説明不足や資料不足が疑われる。
許可は当然、不許可は失敗。
入管業務には、そうした非対称な側面がある。
行政書士が最も努力した案件ほど、結果が厳しいことも珍しくない。
逆に、比較的簡単な案件が、何の問題もなく許可されることもある。
努力の量と成果は比例しない。成果と評価も、必ずしも比例しない。
これは、入管業務の何とも皮肉なところである。
行政書士は、結果を売っているのか
入管業務を長く続けていると、考えざるを得ない。
私たちは一体、何を提供しているのだろうか。
法律知識なのか。資料作成能力なのか。審査基準に対する理解なのか。それとも、許可される可能性を少しでも高めるための経験なのか。
少なくとも、許可そのものを提供しているわけではない。
許可するのは行政庁であって、行政書士ではない。
それでも、依頼人が最終的に求めているものは、許可という結果である。と、なんとなく結果が出そうな安心感。
ここに、入管業務の根本的な難しさがある。
行政書士が提供できるものと、依頼人が本当に欲しいものは、必ずしも一致していない。
そして、その距離を埋めることは、どれほど経験を積んでも容易ではない。
それでも、資料を作り続ける
不許可という結果が出れば、行政書士の努力はほとんど形として残らない。
依頼人は来日できず、事業も始まらず、生活も変わらない。
感謝されるとは限らない。
報酬をいただいていても、仕事をしたという充実感より、結果を出せなかった無力感の方が大きいこともある。
しかし、だからといって、資料作成に手を抜くわけにはいかない。
一つの説明、一枚の証拠、一つの法的な論点によって、結論が変わる可能性もあるからである。
その可能性がどれほど小さくても、検討すべきことは検討する。
ただし、どれほど尽力しても許可が見込めない案件については、その現実を依頼人に正直に伝えることも、専門家の責任だと思う。
申請さえすれば何とかなる、という期待を持たせることが、必ずしも依頼人の利益になるわけではない。
入管業務は、時に報われない。
努力しても許可されない。感謝されない。依頼人の現実も変わらない。
残るのは、不許可歴と、行政書士自身の経験だけかもしれない。
その経験が次の依頼人の役に立つとしても、今回の依頼人が救われたことにはならない。
これが、最もやるせないところである。
それでも、次の案件では、また丹念に資料を作る。
報われる保証など、どこにもない。
そして、そのことを誰よりもよく知っているのが、長年入管業務に携わってきた行政書士なのかもしれない。
